島津源蔵

二代目島津源蔵の探求心が、島津製作所の土台をつくった

二代目島津源蔵

学園の創設者は、1875(明治8)年3月、理科の実験装置などをつくる会社として島津製作所を創業した初代島津源蔵の長男である二代目島津源蔵(以下、島津源蔵)です。

島津源蔵は、子どものころから父の仕事を手伝い、外国の新しい技術や装置に興味を持つようになりました。新しいモノへの好奇心が強かった源蔵は、「自分でもつくってみたい」と情熱をかきたてられ、若くして発明家としての才能を発揮。15歳のときにつくった「感応起電機」はたいへん評判になりました。機械いじりなどが好きで、手を使ってモノをつくるという能力にも長けており、この「感応起電気」の製作の際には、写真をもとに勉強して、自分で図面を書き、旋盤で材料を削って工作しながら装置を組み立て完成させたほどです。

源蔵の才能を支えたのは、未知のモノへの探究心です。経験していないことはなんでもやってみようという性格でした。西洋の新しい科学技術が日本に紹介されるたび、「外国人にできて日本人にできないことはない。同じ人間だ。日本人として、外国人にも負けないという証になろう」との思いを強め、技術を学びながら装置の製作に取り組みました。

源蔵には、「科学技術が新しい世の中をつくっていく」という確信があったのです。だからこそ積極的に学び、また、学んだ技術をベースにして生活に役立つモノをつくろうと考えました。どんなにすばらしい技術も、知識として知っているだけでは意味がありません。「科学は実学。うまく応用して、人間にとっても、社会にとっても、役立つモノをつくってこそ科学技術が生きる。それが自分の役割だ。」と考えていたのです。またこんな逸話も残っています。土の酸性度を調べる器具をつくった源蔵は、お百姓さんにその器具を使ってもらいました。その結果、その土にふさわしい肥料を使うことができ、それまでの倍の作物が取れるようになったのです。これは、源蔵にとって科学の力の応用で生活が豊かになると実感できる出来事でした。「科学技術で社会に貢献する」というこの考えは、源蔵の終生変わらぬ信念でもありました。

エックス線写真の撮影に成功

1895年、ドイツのレントゲン博士によってエックス線が発見されました。その知らせを聞いた源蔵は、「日本でもエックス線写真の撮影を成功させよう」と、さっそく実験に取り組み、成功させました。

日本でエックス線撮影に成功したのは、源蔵だけではありません。しかし、ほかの技術者や研究者は、撮影しただけで終わってしまい、源蔵のように実用化をめざした人たちは少なかったのです。

島津源蔵は、有用なエックス線の技術を生活に役立てようと、いちはやく実用化に取り組み、1909年には日本初の医療用エックス線装置を開発し、多くの病院で利用されるようになりました。

国産初の大型医療用X線装置

このように医療用エックス線装置が医学の分野で果たす役割が高く評価されてくると、最新装置の開発が進み、これらの装置を理解し、安全に操作できる技術者の養成が医学界の課題となっていきました。このような時代背景の中で、源蔵はエックス線装置の普及に力を注ぐ一方で、教育者としてエックス線のもつ危険性を正しく理解し装置を適切に扱える技術者の育成を目指して、現在で言う診療放射線技師を育てる学校をつくり、校長となって指導に当たりました。それが現在の京都医療科学大学の前身です。技師といえども、人間を相手にするもの。不安を持ってやってきた患者さんの気持ちを汲み取り、やさしい言葉をかけてきちんと対応する、そうした技術者になれるようにと教えました。

このように島津源蔵のエックス線への情熱はあらゆる方面において実を結び、その源蔵の信念を受け継ぎ、本学園もわが国で最も歴史ある診療放射線技師養成校として、今後も社会に貢献できる技術者を育成することを使命としています。